ボランティア活動に対する素朴な疑問:仕事の質と責任範囲?

ボランティア活動をしている人たちを遠くから見ている。ビジネススマンの視点から見ると何らかの期待をするのが人間の欲求としてある。これだけ奉仕をしているのだから・・・と言った期待がないはずは無いと思わざるを得ない。

色々な人が色々なニーズや目的のためにボランティアをしている。その活動は自分のニーズを満たすためにある。社会奉仕活動は自己満足の世界ではないか。やりたくないことはやらない。ボランティア活動は強い動機付けがないと行動に移せない。いい加減な気持ちでは続かない。

2020Tokyoオリンピックのシティーボランティアに申し込んでいたが、キャンセルした。コロナワクチン接種が終わっていなかったためである。不特定多数の人と接する仕事はシニアにとってリスクが高い。ボランティアの仕事は好意によってなされるため責任範囲が曖昧になる。東京オリンピックで働いている人は人材派遣会社が派遣しているアルバイトとボランティアである。

有償で仕事を請け負うアルバイトと無償で労働を提供するボランティアでは責任の重さが違う。ボランティアとアルバイトは仕事をする上で意識が違う。仕事の質と責任の感じ方はアルバイトスタッフに重くのしかかる。ボランティアはその人の気質と動機づけの強さに寄る。

ボランティア活動の責任範囲が分からない!

社会貢献という名の下で無償で働く。それがボランティア活動であると認識している。無償で働く、又は、有償で働くの違いに責任範囲の違いがある。報酬がなければ責任も生まれない。そう考える人が多い。実際はどうなんだろうか。

無償で働くからこれぐらいで良いだろう、誰も文句は言わないと思う人が多いのでは。有償の場合は、お客さんが満足する仕事をしないとお金をもらえないし、後々までの信用に関わる。だから、いい加減な仕事は出来ないという責任感が生まれる。

責任が生まれるボランティア活動を行うべきか?

無償のボランティア活動として同じ仕事を受けたならば、仕事の質と責任はどうなるのだろうか。特定分野の専門家がその分野の仕事を無償で行うならば、仕事の質は変わらないかもしれない。仕事に誇りを持っているからいい加減な仕事は出来ない。

しかし、専門家でない人が無償で奉仕する仕事の質には疑問が残る。奉仕を受ける人は無償だからそれだけで十分と思っている。そこには仕事への責任という概念がない。もし、仕事に責任が生じるならばボランティアと言えるのだろうか。ボランティアによる仕事を受け入れた受け入れ側の責任ではないか。

誰にでも出来る仕事でのボランティア活動なのか、その人が持つ専門性を生かしたボランティア活動なのかで仕事の質と責任の範囲が問われる。一般的に重要な仕事はボランティアに任せない。ボランティアにお願いする仕事は万が一に何かが起きてもリスクが小さい仕事になる。

ボランティア活動をこれからしたいと考えているシニアはその活動の責任の範囲と重さを十分考慮して活動をすべきである。

自己満足のためにボランティアをすべきか?

他人のために役に立つボランティア活動は、その結果が役に立ったか、立たないかで分かる。自分の欲求を満たすためのボランティア活動は自己満足の世界だけに留まり、結果に対して責任が求められない。無償で仕事をするよりも有償でちゃんとした仕事をやる方がお互いにとって良いのではないかと時々思う。ちゃんとした仕事をしてお互いが満足することで仕事が成り立つからである。

シニアになると社会奉仕活動に走る人が多くなる。人の役に立ちたい、困っている人を助けたい、自分のリソースを社会で活かしたい、毎日が日曜日の生活に意味がある時間を生み出したいという気持ちが強くなる。本当にボランテイア活動を続けられるシニアはそれなりの強い動機づけがある。多くの人は三日坊主で終わる。気持ちだけが先走る。

ボランテイアをする人が皆責任をとって仕事をするならば、本当の意味で無償の奉仕活動になる。責任は取れないがボランテイア活動をしたいという方はボランティアをすべきではない。

結論

責任が取れないボランティア活動はやるべきではないと思っている。責任が取れない仕事はいい加減になりやすいからだ。途中でボランティア活動を放り出してやめてしまう。そんなことが起きやすい。シニアは毎日が日曜日状態になると社会貢献活動をしたいと思い始める。暇な時間を無駄にするよりは社会に貢献できる活動で時間を有効に使いたいと考える。

ボランティアの仕事だからこのぐらいの仕事の質で良いのではと思い始めたら自己満足の世界に入っている。良い結果が伴わないボランティア活動ならば、やらないほうが良い。いい加減な仕事になりやすい。