今生活している大規模集合住宅に23年いる。私の元会社員生活を振り返ってみると、自宅のドアを開いて最寄りの駅まで歩く。会社で仕事をして夜に帰宅する。週末は家族でドライブ。外食。集合住宅でも自治会があるが毎日住んでいる人達と触れ合う場所や機会がない。
この23年間、私が知っている隣人は非常に限られている。
隣、上、下の住民を見かけるぐらいの触れ合いだ。マンション生活は、どこもこんな感じかもしれない。田舎育ちの私は、都会生活は便利だが寂しい感じを受ける。Face to Faceの触れ合いが住んでいる地域で確立できないからだ。23年間で住民たちと知り合える機会は、子どもたち経由だ。同学年の子供を持つ親たちと学校で出会い、クラブ活動で親交を深め、一緒にデイキャンプに出かける。子供を経由した住民との出会いは、触れ合うつながり規模が狭すぎる。
63歳になり、子どもたちが巣立ちし、子供経由で知り合えた住民との接点が少なくなる。幾つかの隣人は、23年間の間に引っ越しをした。新しい住民も入居してくるが会話をする機会はない。顔は見かけるけれども、どの部屋に住んでいるのか、どんな家族構成なのか、何年たっても分からない。
多くの人たちが大規模集合住宅で生活しているが、知らない人たちだらけだ。We are NOT ALONE but Lonely.である。この状態が年老いていくシニア夫婦に広がっている。
孤独死は都会に多いのでは?
田舎で生活をしている兄夫婦は、周りの住民の状況を知っている。いつも顔を見ている老人が顔を出さなくなるとその老人の家まで行って声をかける。誰が、どこで、何をしているかが周りの住民との間で情報共有されている。情報は、都会と違ってクチコミ情報だ。暇な老人たちが集まる場所がある。そこで街で起きていること、友人や知人のこと、話の種が集まる人から色々と提供され、共有される。誰もが名前と顔を知っている。ときには、それ以上のプライベートな情報まで知っている。
私たち夫婦は、便利なインターネットがあってもここまで隣人の情報はつかめない。誰もが気楽に集まって井戸端会議をする場所がないのだ。井戸端会議が開かれるのは、たまたま、マンションの入口で出会った時ぐらいだ。二人でおしゃべりをしていると二人を知る知り合いが一人、また、一人と集まってお喋りに参加する。
非常に限定された知人、隣人とのコミュニケーションであるため、田舎ほど周りで何が起きているかが分からない。
マンションで一人生活をしている老人は、毎日誰かと触れ合っていなければ、動向が分からない。友人、知人が同じマンションに生活していれば、何らかの繋がりがあり、大体の状況をつかめる。住民たちとの触れ合う機会を失うと誰もがその老人の状況を知ることが無くなる。孤独死が発生してもおかしくない。
私の隣人宅は、インド人家族だ。日本語を理解する家族がいるので時々顔を合わす時は日本語になる。挨拶だけの隣人だ。家族構成も職業もプライバシーに関する情報は一切入ってこない。多くの日本人が生活している集合住宅で外国人家族は自然に孤立する。何故か、彼らは積極的に住民たちと触れ合う行動を取らない。その必要性を感じていないのかもしれない。
日本での生活は短期的であるからかもしれない。もし、彼らの誰かが生活上で問題を起こした時に状況がわからない私達日本人は対応に遅れるだろう。同様なことが、孤立した生活を送っている老人住民にも当てはまる。私達人間は一人で生きていけない。
老いてくる男性は、女性と違ってますますコミュニケーションで問題を抱えるようになる。女性はおしゃべりする相手を常に探している。お喋りが出来なくなると窒息死するからだ。男性は、別にお喋りをすることへの欲求がそれほどない。老いてくる度に友人、知人が減っていく。何かをしていないと他の人間と接する機会が無くなる時代だ。
都会には、お節介なおばちゃん、おばあさんがいない。一人になろうと思えば出来てしまう。田舎は、それが出来ない。誰かがやってきて色々と話しをしていく。ときには、野菜畑で取れた新鮮な野菜をくれたりする。新しくやってきた人が注目の的になるからだ。皆が、あの人の情報を知りたがる。知るためには、あの人にあって話をするしか無い。田舎は新しい人を一人にさせない仕組みができている。
あと10年から20年すれば、私たち夫婦が性活する大規模集合住宅でも孤独死をする老人が生まれるだろう。それまでに住民同士が気楽に集まり、触れ合う「場」と「機会」を作らねばならない。
この記事「都会生活をしていると地域での触れ合いがない・・・孤独につながる」のポイントは、
- 多くの人たちが大規模集合住宅で生活しているが、知らない人たちだらけだ。We are NOT ALONE but Lonely.である。この状態が年老いていくシニア夫婦に広がっている。
- 住民同士が気楽に集まり、触れ合う「場」と「機会」を作らねばならない。