イタリアの老人の居場所は近所のカフェだが、日本は何処だろうか?

老人の居場所を探すのが難しい。会社員は、地元地域に根をつけていないため根無し草に成っている。定年退職後もその状態は変わらない。地元住民として生まれ育った人は良いのだけれども生活の拠点が転々と移動しているとその地域に生活しているだけの住民でしかない。奥さんたちは、子供の成長過程で地域社会に根付く。奥さんコミュニティが知らない間に出来上がっている。旦那衆はこのコミュニティには入れない。

海外でも日本でも引退したシニアは、自宅を出て暇をつぶすことになる。自宅は、妻たちの城になって占領されている。私の場合は、自分のビジネスをしているので暇をつぶすということはないが、周りの高齢者達を見ていると暇の潰し方に苦労をしている。特に自分の居場所を見つけるのに困っている。

カフェは地域の憩いの場所になりやすいのだが、地元にカフェがない場合は(特に田舎)何処になるのだろうか。田舎の老人たちは、何処に憩いの場書を持っているのだろうか。

老人たちがリラックスできる「憩いの場所」

私が住む場所には、カフェがない。駅まで山から下っていかないと地元の人が経営するカフェに行けない。そのカフェの中を見ると地元住民らしき高齢者がいつも4,5人集まっている。個人経営のカフェであるため、若者たちが好む雰囲気はない。昔ながらの喫茶店だ。店主も老人。お客も老人だ。店内では、それぞれの老人たちが好きな時間の使い方をしている。

新聞を隅から隅まで読んでいるおじいさん。編み物をしているおばあちゃん。本を読んでいる老人。おしゃべりで盛り上がっているおばあちゃんたち。とても、そんな雰囲気の中に入っていけない。自分の足は知らない間に横浜駅近くにあるカフェに向かっていた。

通勤で使う駅の近くに大衆浴場がある。ここも地元住民の老人たちが朝から集まって1日中いる場所に成っている。入浴料金が800円ぐらいするのでその料金分以上を楽しむためにランチを食べながらゆっくりと時間が過ぎていくのを楽しんでいる。お風呂、食堂、昼寝の場所、散髪屋など揃っている。

自分一人で外出ができない老人たちは、デイサービスを利用している。老健と呼ばれる施設に行って同じような境遇の老人たちと一緒にリハビリや頭の体操をしている。元気で健康なシニアは、普通の生活が出来るが一度健康障害に陥ると老人は人の助けなく動き回れなくなる。子供であれば、直ぐに元気になって飛び回れるが。老人の体力は簡単には元に戻れない。

自分の居場所を確保することが精神的健康を維持する上で最も需要だ。

あそこに行けば顔見知りの知人がいて気持ちが落ち着くという場所を見つけないといけない。誰もがそんな居場所を見つけられない。そんな時、どうすれば良いのだろうか。私の逃げ場は、仕事である。仕事をしている限り、仕事場がある。私の仕事場は、カフェである。別に仲間がそこに集っているからではない。仕事をしている限り、私の居場所が生まれる。その意味合いで死ぬまで仕事をすることになると思う。お金の問題ではなく、精神的な安定を望むからだ。社会とのつながりがある限り、心に張りが生まれる。

色々な場所で自分の居場所探しをしている老人たちと会う。横浜周辺では、横浜ベイクォーターにあるトイレ辺りに休める場所が各階にある。そのあたりに場所探しで老人たちがいる。長時間いられる場所ではないが、人目に触れずゆっくり出来る場所だ。そごう横浜のデパートにもそんな場所がある。各階のトイレが有る場所だ。トイレ待ちの椅子が置かれている。

デパートの休憩場所は、老人たちが好む場所に成っている。昼間のデパート内に何故か老人がウロウロしている理由がわかる。これら以外に老人がいる場所は、地区の図書館と公園だ。何かに没頭する趣味が活動をしている老人であれば、活動場所が憩いの場所になる。多くは、自分の居場所を探すのに苦労をする。

老人がリラックスしていられる場所は、気心を知れる人がいる場所かもしれない。私の実家は雑貨商をしている。田舎も老齢化が進んで店舗が消えていっている。そんな中で店をオープンしているためか近くの老人たちのたまり場になっている。お店にお客としてくる場合よりも憩いの場としてやって来る場合が多くなっている。気心知れた人達がいるからだ。

今の私には、仕事場以外に居心地がいい場所はない。仕事を続けている限り、現状を維持できる。

この記事「イタリアの老人の居場所は近所のカフェだが、日本は何処だろうか?」のポイントは、

  • 日本の老人の居場所は何処にあるのか分からない場合が多い
  • カフェ、デパートの休憩場所、地区の図書館、公園など色々あるが最終的には気心知れた知人がいる場所だ
  • 仕事をしている人は、仕事場が居心地がいい場所なのかもしれない