老後をどの様に過ごすかの見取り図と体力維持が命題!

NPO団体の総会に参加して懇親会で寿司を食べながら周りでしゃべっている会員の話に耳を傾けた。元気な後期高齢者75歳以上のシニアたちは、創意工夫して自分の生き方を模索している。

余生は、周りを気にして生きたくない。好きな事をやる、やりたい事をする、食べたい物を食べて生活をしたいという会話が聞こえる。その方は80歳を越えた知人からだった。NPO団体で活躍している会員だが、変な義理や人情で仕事はしない。好きな事だけをやって自分の時間を楽しんでいる方である。

その会話を聞いていて、100%納得した。余生は世間体や世間の常識に囚われないでGoing My Wayで行くべきだ。

環境が許す限り好きな事をする

残された時間は短いという事を誰もが感じ始める。75歳を過ぎれば、そんな感覚を覚えるという。残された時間を有意義に過ごしたい。それをするには、本当に自分が求めている事をやるしかない。死ぬ間際に「あの時、あれをやって置けば良かった!」なんて思わないように。

65歳の私にとっては、75歳過ぎのシニアの感覚は想像し難い。年寄りのおしゃべりから、「ああ、そんな感覚で自分の人生を見ているのだ!」と気が付くしかない。

自分の老後をどの様に過ごすかの見取り図

老後の生活は個人差がある。誰もが同じような考え方で同じような生活をしているとは限らない。与えられた自由な時間をどの様に使うかはその人に任される。自分の老後をどの様に過ごすかの見取り図が出来ていれば。その見取り図に従って生きて行けば楽しい老後を味わえる。

好きな事がある老人は、好きな事をやれば残りの人生を後悔しない。体の不調で食べる物に制限が生まれれば、後であの食べ物を食べて置けば良かったと後悔する。そのような体になる前に食べたい物を食べるのが、老後の生き方ではないか。

自分の人生の終わりは、予測できないが年齢が70歳を越えれば生きていられる時間に限度があると分かる。長く生きても100歳までだろう。シニアの男性が90歳まで生きて普通の生活が出来るならば、非常に幸運なシニア男性であると思う。私の義父は、先日95歳の誕生日を迎えた。

彼は、自宅で一人生活をしていたが明日介護付き有料老人ホームににゅうきょする。今まで週に1度家内が身の回りの世話で訪問していた。彼の余生はこんな漢字である。好きなお酒を毎食時に飲み、リクライニングシートでテレビを見たり、パターゴルフを自宅の中でやったりしている。体の自由が効く間は一人で好きな事をする。それが彼の余生の見取り図になっている。

普通の生活が出来る体と健康を保つ事

75歳を過ぎれば、高い買い物をする事もなくなり年金だけで生活が十分回るようになる。95歳の義父は、自宅で必要最低限の消費だけである。変動費は、食費ぐらい。一人分の食費は自炊をするのであまりかからない。好きなお酒を毎月買うぐらいだろう。

65歳の私は、95歳の義父の生き方を参考にして自分の老後を想像するしかない。一つだけ言える事は、普通の生活が出来る体と健康を保つという事。自分で身の回りの世話が出来ている限り不自由な生活は発生しない。年金も生きている限りずっと政府が支給する。

友人、知人、親せきは知らないうちに他界してい行くが、歳を取ればとるほど他の人との接触が無くなる。孤独な生活が当たり前の人生になる。長生きをすると孤独と友達にならざるをえない。

100歳を過ぎている老人は本当に幸せと思っているのだろうか。100歳を過ぎても自分の体が言う事を聞かない人生では何も面白くないと私は思う。基本は、「体が資本!」である。何歳まで普通の生活が出来る体を維持して行けるかが私の命題になる。

結論

  • 何歳まで普通の生活が出来る体を維持して行けるかが命題になる。
  • 孤独は当たり前。長生きをすればするほど身近な友人、知人、親せきがいなくなる。
  • 自分が満足する生活を追求するのが老後の人生なのではないか。