若者は、年老いて行く自分の両親の人生を見ている。自分もいつか親のように年老いて行くと思っている。親の老後の生活は、自分が高齢者になったときのお手本になる。
自分の親がいつまでも元気で生き生きしている生活をしていれば、その姿を自分の老後に描き出す。老いていく親は、子供にお金、土地や資産をあげるのではなく、老後のお手本を教えるべきだ。誰もが老人になる。老人になったときに何をして生きて行けば悔いのない余生を送れるか、親は子供に教えた方が良いだろう。
子どもたちは親の老後の生活をお手本として見ている!
日本の学校教育にしてもどの国の学校でも年老いた老人の生活設計や人生設計を教えてくれない。少なくともガイドライン的な教育は無に近い。それを求めることが無理なのかもしれないが、老人になって一番困るのは他界するまで自分は何をすれば良いのかと言うことだ。
誰に聞いても回答を持っていない。人それぞれの人生が違うからだろう。
それならば、少なくとも自分の息子や娘に自分の老後の姿ををお手本として見せるべきではないか。お手本になるかは分からないが、こんな老後の生き方があるという事例を自ら示せば子供たちにとって良いお手本になる事は確かだ。
私が働き始めて一番頭にきていることがあった。それは、日本の学校教育でお金との付き合い方を何も教えてくれなかったことだ。お金の稼ぎ方、使い方、貯め方、運用方法の基礎が分かっていれば自分の人生は相当変わっていたのではないかと思っている。
自分の老後の生活を描けるだけの事前情報があれば、若いときからそれに備えられただろう。
例えば、
私が20才代の時は、定年退職後は年金で生活が出来るということを疑わなかった。今、年金を頂く年齢になって若いときに描いていた年金生活と目前に迫る年金生活とでは相当の開きがある事に気がつく。政府を信じて納めていた税金が政府に裏切られるように無駄に使われて年金資金が減少している。
歳を取れば取るほど自分で自分の生活を守るという信念が強まる。決して、公のサービスや支援に頼るべきではないと。頼るときは、利用するという考えで補助的な要素として考える。ボトムラインはいつも自分である。自分でどこまで自分の生活を守れるかだ。
私の子供たちの老後は、多分、私たちの老後と比べてもっともっと悪い状態になるのではないかと心配している。それ故、政府に頼る生活を期待してはいけない。自分で生きて行くためには、何を準備してどのような考え方で生活をしていくべきかを描く必要がある。
少子高齢化が進み労働生産が低下する。高齢者も労働者として働かざるを得なくなる時代がもうすぐやって来る。嫌々働かざるを得ないという姿勢で余生を過すのはつまらない。自分の夢を達成させるためとか、自分の子供のお手本になるためにとか、何か自分の余生を輝かせる要素があっても良いのではないだろうか。
お金だけに目を行きがちだが、本来は歳を取った高齢者が生き生きと働いている姿に意味があるのだ。良く聞く言葉がある。町工場の社長さんがこんな事を言った。「食べていけるだけのお金さえあれば良い!」と。
お金は生きていて健康な体を持っていなければ何の意味も持たない。お金のためだけに自分の余生を使うのは意味がない。余生を生き生きと楽しむために稼いだお金を使うのであれば意味がある。自分の人生も生き生きとした老後の人生したい。働いて稼ぐお金は、余生を生き生きと過すために使うお金だ。貯めて安心するだけのお金にはしない。
どんな余生を送ろうとも子供たちにお手本となる余生にしていきたい。自分の老後の生活は、自分たちの子供に影響する。子供たちは、私の生まれ変わりであるからだ。私のDNA、祖先のDNAが活きている。