老人は世間体を気にするのか?

横浜ベイクォーターに行く時に必ずそごうデパートを通り抜けることになる。ランチ時間帯に地下2階の正面入口から入るのだが、その正面入口のフロアーが食品売り場のフロアーになっている。正面入口を20メートルほど進むと上に行くエスカレーターが有る。エスカレーターの横には、休むことが出来るベンチが置いてある。そのベンチには、歩き疲れた家族や老人たちがいつも座っている。

ランチ時間帯の休憩ベンチは、老人たちが食品売り場で購入したお弁当を食べる場所になる。

ただ、

私はとてもその場所で食事は出来ない。多くのお客がエスカレータに乗って行く。必ず、休憩ベンチを見るのだ。世間体を気にする人は、その場所で食事はしないだろう。

老人たちは我が道を行くのか?

大規模なそごうデパートは、老人たちの憩いの場所になる。横浜の地下街にあるお店を冷やかしながら、疲れたらそごうデパートの中にある休憩場所で休む。ランチ時間帯やおやつタイムになるとそごうデパートの食品売り場で販売されているお弁当やおやつ類の食品を買ってデパート内の休憩場所で食べる。

レストランで待ちながらランチをするよりも待ち時間も無く、コストも安く美味しい。そごうデパートでランチを取る老人は女性が多い。女性もある年齢を越えると他人から見られることに鈍感になるのだろうか。私が見かける老人たちは、75歳以上の風貌だ。

高齢化社会になってきている。そんな実感が横浜の地下街や界隈を歩くといつも感じる。自宅にじっとしていたくない老人たちは、人々が集まるデパートを目指す。女性ならば、そごうデパートのような目を楽しませてくれる場所だ。ここならば、冷房が効いていてトイレもあり、お腹が空けば美味しい食べ物が買える。老人たちにとって便利な場所である。

そごうデパートで暇をつぶす老人たちは、一部の老人たちである。老夫婦よりも一人の年配女性が多い。世間体を気にする老人は、デパートは買い物だけ、または、レストランでの食事のためだけにやってくる。一人で生活をしている老人女性は、社会との接点が希薄になり世間という視点で自分を見る必要がなくなっているのではないか。

孤独で一人生活が続くと余生を我が道を行く生活なりがちだ。友達や夫がいれば、レストランで食事をしながらおしゃべりを楽しむのだが、相手がいないならば自分好みの場所で食事をすれば良いとなる。

80歳近い老人が社会で何をしようが世間は何も注目しない。「ああ、あそこに暇そうにしている老人が座っている!」と認識するだけだ。

歳を取って行くということは、社会で無用の存在になって行くという事だろうか。社会で必要とされる老人は、世間体を気にする。世間があれこれとコメントするからだ。この考えが正しければ、世間体の意識を失った老人は社会で不必要な存在なっているということか。

実社会で何かアクションを取っている老人は、世間体を意識する。これは確かだ。自分の行動や生活が社会の中の自分の存在とマッチしているかを確認する。

会社を経営している老人ならば、そごうデパートの食品売り場の横にある休憩ベンチでお弁当を食べない。昼休みにデパートの食品売り場に出かけない。 そんな時間も暇もないだろう。

老いてきても死ぬまで社会で必要とされる人材として自分の人生を考える必要がある。